続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だより3

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

『上州坪弓老談記』第12話(後半)

2022年の3月、仁田山城のある桐生市川内町によく行きました😊

お出かけのお供は、タバサねーちゃんでした。

 

このころの元気な黒柴家族です。

小次郎パパも、背中の吹き出物の手術を耐えて、娘たちと静かな晩年を過ごしていました😊


 

 

『上州坪弓老談記』第12話(後半)

 

入道少しも騒がず仰せられけるは、「定めて桐生より寄せ来らん。兄弟の者共有合ふな

らば、一合戦[火の字脱か]花を散らし見物すべきに、留守なり。今小勢といひ、又大

炊之介殿御恩忘れ難し、ひとまづ谷山へ退き、後日の沙汰を見ん」と、仰せられけれ

ば、石原氏、此の儀尤もに候とて申しける。

 

大抜佐兵衛委細を承つて、石原を礑と白眼て申しけるは、「扨々浅ましき入道殿の御所

存やな。運命尽きぬれば、才覚の花も開かずとは、今思ひ知られたり。谷山へ退き給ふ

とも、此度こそ雲の極まる所なり。縦ひ小勢なりとも、寄せ来る敵に、矢の一筋をも射

ずは、死して後迄も、御兄弟の思召も恥しき事なり。侍の名乗、天理も長く朽ちぬべ

し。里見家に伝はるは、其方我等計なり。今日迄肩を竝べ膝を組みたること、口惜しき

次第なり。早速各は御共ありて、谷山へ退出あるべし。御後にて心静かに、佐兵衛は討

死仕るべし」とて、扨夫より抜揃へ、大勢の中へ割つて入り、十文字に切つて廻り、人

馬の嫌なく、當るを幸に 、面を振らず切り入りにけり。清水道仙・水沼主水、家人一族

十五六人討死したりけり。

 

佐兵衛も親子計り討残され、弟源左衛門は生捕られ、敵は大勢なり、初より遁るべきと

は思はず、能き敵と組まんと、走り廻りけれども、次第に勢弱り、果は是迄と思ひ、御

館に火をかけて、門前に走り出で申しけるは、「今日御出陣なさるゝ衆、敵少にて御残

多き事もあるべし。 能々骨を嗜み置け。追付桐生へも、新田・足利より攻むべし。中に

も出羽守、因果は今の佐兵衛にも似るべし」と、親子諸共に切つて出て、出羽守に組ま

んとしたりけれども、終に合わず、荒巻兄弟・風間将監に、渡合ひ、親子共に討たれけ

る。石原兄弟心替なくんば、桐生よりも攻むまじ、和議にもなるべきものをと、皆人申

しける。

 

佐兵衛親子の首、桐生峠に懸かるなり。出羽守は帰陣して、始終を又次郎殿へ申しけれ

ば、「入道、谷山へ退き降参致さば、攻むまじき物をと、水沼・清水が討死もあるまじ

きに、大拔佐兵衛が働は、敵にありては、いやな侍なり。弟源左衛門も、早く首を切つ

て懸けよ」とて、歳二十三にて切られけり。惜しまぬ者はなかりけり。

 

入道谷山へ御つぼみなされけれども、「石原不忠露見せば如何とて、入道にも生害させ

よ」と、石原石見に仰せ付けられ、終に生害せられける。首をば則ち石見守に下されけ

る。石原兄弟も又次郎殿御家人になりて勤めける。

 

扨越州に御座ある随見・勝安、右の趣を御聞及び、「口惜しき事かな。切腹・討死は、

武士の家に珍しからず。佐兵衛親子、源左衛門が働、不憫千萬なる事なり。如何にして

も、二度桐生へ参着して、津布久・山越と刺違へて、本望を達せばやと思うなり。逆心

の奴原は、意趣を報ゆるに及ばず、天命にて子孫永く絶え果てん事、遁るべからず。」桐

生騒動未だ納まらずと聞こし召し、大炊助殿の御恩を思出され、「笑止千万なる事かな」

とて、涙を浮かべ給ふなり。

 

 

 

あらすじです。

 

入道は少しも騒がず、「きっと桐生から押し寄せてきたのであろう。息子の兄弟達がいた

なら、一千を交えて火花を散らしてみても良いが、今は留守だ。今は小勢であり、大炊

之介殿の御恩も忘れがたい。ひとまずは、谷山に退去して、後日の沙汰(命令、指示)

を待ってみよう。」とおっしゃる。

石原氏(石原石見)は、「ごもっともです。」と申し上げる。

 

大抜佐兵衛は、入道の考えを聞いて、石原をハタとにらみつけて、「さてもさても浅まし

い入道殿のお考えである事よ。運命が尽きたときは、才覚の花も開かないとは、今思い

知った事よ。谷山(やつやま)へ退去したとしても、そここそ究極の地である。たとえ

小人数であっても、寄せ来る敵に一本の矢も射ずに退却するのは、死後も御兄弟が恥ず

かしく思われることだろう。侍としての名前、天の原理も末永く朽ちてしまうにちがい

ない。里見家の血筋を引くのは、その方と我らだけである。今日迄一緒に行動してきた

ことが、残念だ。早速彼らをお供として谷山へ退出するべきだ。その後、佐兵衛は心静

かに討ち死にいたそう。」と言って、「ただ心残りは、御兄弟のことだなあ。今生の縁は

薄くとも、来世は同蓮の縁(一蓮托生)の縁に預かりたいものだ。」と、大粒の涙を流

した。

 

佐兵衛の一族 や家臣も20人には満たない。

その中でも、心を合わせて行動するのは、大抜彦八郎・次男彦七郎・舎弟源左衛門、家

来では篠田兄弟で、覚悟を決めているようである。

館の庭の真ん中に並んで、最後の盃を差しつ差されつ呑んでいた。

 

桐生勢はまもなく近くまで押し寄せた。

左衛門は館の門外に出て、大音声を揚げた。

「きっと桐生から又次郎殿が御出馬でしょう。里見入道は只今石原を連れて、谷山(や

つやま)へ退出します。何とぞ今まで通り、御支配に背きませんということです。某

(それがし)一家だけがここに残って、御出馬の面々に一矢報いようと思ってます。我

らが矢をお受け下さい」と言って、50本の矢を右側に並べて、心静かに射たところ、

寄せ来る敵は300人ばかり集っていたので、無駄な矢(当たらない矢)は、1本もな

かった。

 

さてそれから刀を抜いて、大勢の中に分け入って、十文字に切って廻り、人馬の区別な

く手当たり次第に、脇目も振らずに切って廻った。

清水道仙・水沼主水をはじめとする家人一族15、6人は討死してしまった。

 

(大拔)佐兵衛も親子だけが討残され、弟源左衛門は生捕られてしまった。敵は大勢で

初めから防げるとは思っていなかったけれど、良い敵と組もうと走り廻ったけれども、

次第に勢いは弱ってしまった。

 

今は是迄と思い御館に火を付けて、門前に走り出て言うことに「今日御出陣なさった衆

は、敵が少なくて残念でしょう。よくよく気をつけよ。すぐに桐生へも、新田足利から

攻め寄せて来るだろう。中でも(山越)出羽守は、その因果は今の私佐兵衛のようにな

るだろう。」と。

 

親子一緒に切って出て、出羽守に組もうとしたけれども、終に合うことはなかった。

荒巻兄弟・風間将監と渡り合って、親子一緒に討たれてしまった。

「石原兄弟の心変わりがなかったら、桐生からも攻め寄せてこなかったろう。和議に出

来ただろうものを」と、みんなが思った。

 

大拔佐兵衛親子の首は、桐生峠に懸けけられた。

出羽守は帰陣して、事の成り行きを又次郎殿に報告した。

又次郎殿は、「入道が谷山(やつやま)に退去して降参すれば、攻めなかったのに。そ

うすれば、水沼・清水の討死もなかったであろうに。大拔佐兵衛の働きは敵方としては

いやな侍であった。弟源左衛門も、早く首を切って掛けよ。」と言った。

 

源左衛門は、23歳で切られた。

彼の死を惜しまない者はなかった。

 

里見入道は、谷山で謹慎なさっていたけれども、「石原の裏切りが露見したら、大変な

ことになる。入道も自害させよ。」と石原石見に命令され、入道は終に自害させられ

た。そしてその首は、石原石見に下された。

 

その後、石原兄弟は又次郎殿の御家人になった。

 

さて、越後にいる随見・勝安は、その出来事をお聞きになって、「誠に残念なことだ。切

腹や討死は、武士の家には珍しくないことである。けれども、佐兵衛親子、源左衛門の

働きは非常にかわいそうな事である。なんとしても再び桐生に帰って、津布久・山越と

刺違えて 、本望(仇討ち)を達成したいものだ。裏切った者たちは、復讐をする必要は

ない。天命で子孫が永遠に絶えることが避けられないだろう。」桐生家の騒動が未だ納ま

らないと聞いて、大炊助殿の御恩を思出されて、「まことに気の毒なことだ。」と涙を浮

かべなさった。

 

 

大拔佐兵衛は、里見一族なのです(*゚Q゚*)

里見入道の影が薄いというか、キャラクターが生きていません(´・_・`)

 

大拔佐兵衛のこの発言こそ、彼に対する諫言です。

自らは桐生親綱に諫言を繰り返していながら、佐兵衛の諫言には耳を貸しません。

でも、佐兵衛はその入道の息子達は、高く評価しています。

 

佐兵衛の家族や家臣併せて約20人とすると、仁田山の里見家はいったい何人くらいの

家中だったのでしょう?

まして、佐兵衛の家臣もいるとは(*゚Q゚*)

里見家中、いったい何人で甲州から浪人してやって来たのでしょう?

現実離れした設定かも知れません。

 

 

大拔佐兵衛が、里見入道の御館に火を付けたのですね(;゜0゜)

大拔佐兵衛も、一族郎党を抱えているのです。

いったい里見家中は、どんな状態で甲州から浪人してきたのでしょう?

召し抱えるには、ちょっと大勢過ぎるように感じます(^-^)/

 

仁田山城の麓の館跡と考えられる場所は、桐生市川内町5丁目にある五丁目三町会広場

です。

ここには、江戸時代、蓮慶寺というお寺がありました。

現在では廃寺となり、庚申堂と石造物のみ残しています。

 

石原兄弟の裏切りが、里見上総介一族の悲劇の元といっているようです(^-^)/

 

桐生からは和議に持ち込まないように、早速に押し寄せたのです。

後の里見兄弟の仇討ちの物語の伏線ですね(^-^)/

 

桐生峠は、どこだかわかりません。

現在、桐生峠なる峠は見当たらないようです。

たぶん、仁田山や谷山からの小平への山越えルート途中だと思われますけど。

 

又次郎殿は、「入道が谷山(やつやま)に退去して降参すれば、攻めなかったのに。」と

言ってます。

入道は、谷山に退去したのに(*`へ´*)

それにしても、石原石見さんは、どのように説得して自分の主人(里見入道)を自害に

追い込んだのでしょう。

本来ならば、桐生側との間に立って、戦国交渉人のような役割が期待されるところです

けど。

里見入道は、石原石見の本心を見抜けなかったのです。

入道のキャラクター、ちょっと弱いかな?

 

どうも敬語の使い方が不自然です(°_°)

官位も武将としての実績も無い随見・勝安にも敬語を使ってます(°_°)

この老談記の作者は、何者でしょう?

 

テキストは、国立国会図書館のデジタルコレクション『国史叢書 上州知覧記・上州坪

弓老談記・上」金山軍記・新田正傳記・新田正傳或問』です。

 

『上州坪弓老談記』の解題として、

本書は、上野国坪弓といふ所の老人の昔物語を筆記せし趣、寛永二年の序文に記せり。

内容は、所謂戦国時代、上野国に関係せし上杉家・小田原北條家を始め、土地の豪族由

良家・桐生家、又隣国下野国の豪族等にして、此れ等の人々が、上野国に関係せし事蹟

を記したるものなり。

 

寛永二年は、西暦1625年です。

いわゆる元和偃武で世の中に平和が訪れ、軍記物も書かれ始まった頃です。

寛永二年を今として語ってますけど、本当に書かれたのはいつでしょう?