続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だより3

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上州坪弓老談記・第13話(桐生家の滅亡・その1)

桐生氏館があったというのは、北部の柄杓山の麓(桐生市梅田町)渭雲寺(いうんじ)の辺りと言われています。

2018年10月、柄杓山周辺をめぐりました。

その時の写真を探していたら、懐かしいひめちゃんと七海ママの姿がありました(✿◡‿◡)

 

この頃のひめちゃんは、七海ママとお散歩することが多かったようです😊

ママは14歳半、ひめちゃんは6歳半です。

ひめちゃんは今、この頃のママとほぼ同世代になりました⊙.☉

 

運動神経抜群のひめちゃんは、ミニドッグランのフンスも、軽々と飛び越えていました😊

全く今までにない子でした(⊙o⊙)

 

 

 

   

『上州坪弓老談記 ・第13話』(桐生家の滅亡・その1)

 

上野国新田の城主由良殿は、大沢下総・林越中・藤生紀伊を召され、仰付けられける

は、「新参・古参を諍ひ、其上、山越出羽守・津布久刑部が仕置に退屈して、歩弓の者

迄、能き者は皆退出し、百姓・町人も在寺籠者に[殿アルカ]寸隙を得ずと承り候、荒

井主税・茂木右馬亮、諸色構はず。右四人は、殊の外なる奢り者故、大方桐生は騒動し

て、終には破滅するに疑なし。定めて隣邊に、其沙汰隠れあるまじ。必定ならば、荒

井・茂木に内通して、押寄せ追散らし、新田支配になすべきなり。縦ひゆるし置くと

も、他所より、入馬せば、後日六ヶ敷事なり。よくよく聞届けられ、然るべき様に計ら

ひ候ふべし」と、仰せられければ、

 

紀伊守承つて、「仰聞けらるゝ所、少しも違ひ之なき様に承り候」と、申上げければ、

足利顕長公仰せられけるは、「尤も追散らし度事なれど、佐野と一家の事なれば、後

詰・横鑓を出さば、手間を取るも知れず、兎角新田・足利の人数を損ぜざる様に、謀り

候べし」と、仰せられければ、大沢下総承つて、「紀伊守は桐生に縁者ありければ、委

細を存ぜられ候、能々内通を聞き届けられ、時日を移さず、思ひ立ち候はん」とぞ申し

ける。

 

扨紀伊守は、津久井和泉・斎藤備後・関口尾張・中里・若狭・彦部加賀守を招き寄せ

て、内談を極めて、荒居・茂木に通じたりけり。大屋勘解由左衛門・谷右京進連判を押

して、紀伊守方へ送りける。風間将監佐持・下橋治郎・荒巻式部・伊藤帯刀は、連判な

けれども、兼ねて紀伊守との面談にて、定約したりけり。

 

津久井左京は老体、薗田・岩下・砂永・下山抔は、桐生殿の御家人たりといへども、勘

解由・鹿貫将監・白石掃部は、山中の五蘭田攻の時、加勢に謙信公御家人萩田備後守に

頼まれて、先陣して、家人一族共に討たれけり。山中の巻下・阿久沢・松崎善悪の沙汰

なし。蜂須・長澤・土屋・馬見山・気村・森下・書上・生方は、此頃の新参者なれば、

いふに及ばず。外に永井弥市郎・飯塚播磨守・稲垣主膳・内田庄之助抔は、高知行なれ

ども、津布久・山越が与力同前の者なり。敵に此の五三人計り心にくし。其外、小身侍

は、手に立つ者はなし。早速新田より人数向けられ候べしと、上下願ふ所に候なり。遠

藤・根本・片山・宮内・村上は、役人の事にて、にくむべき子細なし。

 

扨天正元年三月十二日、藤生紀伊守を大将として、桐生殿の御館へ押寄す。先陣は荒戸

寄山に集り、近辺より集る勢を待ち居たり。新田より紀伊守加勢には、小金井四郎左衛

門・金谷因幡守・木村伊豆守・国定玄蕃・岡田石見・芝山久助・広瀬長蔵・岸根彦五

郎・畑六之助 ・松下十蔵・斎藤織部・同甚九郎・浜田内匠・南佐渡守を先として、上下

百七十五人寄来り、境野原に陣を取つて、紀伊守に便を通ず。

 

 

 

あらすじです。

 

上野国新田の領主・由良殿が大沢下総守・林越中守・藤生紀伊守を及んで、お命じにな

った。

 

「桐生では、新参と古参の諍いがあり、そのうえ山越出羽守・津布久刑部の処置に困っ

て、歩弓(かちゆみ)の者で能力のある者までが去り、百姓・町人も寺に籠もって少し

の隙間もないと聞く。荒井主税・茂木右馬亮は、これらのことを気にしていないよう

だ。右の4人は、殊の外おごり高ぶっているから、たぶん桐生では騒動が起こり、終に

は破滅することは疑いない。きっと近隣にも、その噂は広まっているだろう。そうなる

とわかっているなら、荒井・茂木に内通して押し寄せて、新田の支配にしてしまおう。

そのままにしておいて、よそから侵略されたら面倒なことになる。然るべきように取り

計らえ」とお命じになる。

 

藤生紀伊守は、「桐生の様子は、おっしゃるとおりです。 」と申し上げた。

 

足利の長尾顕長公は、「桐生家を追い散らしてしまいたいけれども、桐生家は佐野家と

一族なので、佐野から後詰や横鑓が入ると、手間取るかも知れません。とにかく、新

田・足利の兵に被害がないように思案するべきだ。」とおっしゃる。

 

大沢下総守は、「紀伊守は桐生に縁者があるので、細かいことまで知っているでしょう。

内通して、素早く実行しましょう。」と申しあげる。

 

さて、藤生紀伊守は、 津久井和泉・斎藤備後・関口尾張・中里・若狭・彦部加賀守を招

き寄せて、内々に十分に話し合った。

 

そして、荒居・茂木に内通したのであった。

大屋勘解由左衛門・谷右京進は、連判状に判を押してを押して、紀伊守方へ送ったので

あった。

風間将監佐持・下橋治郎・荒巻式部・伊藤帯刀は、連判がないけれども、以前紀伊守と

の面談で、内通が約束されていた。

 

さて、天正元年(1573)3月12日、新田勢は藤生紀伊守を大将として桐生氏の館

に押し寄せた。

先陣は荒戸新町に陣取り、周辺から集まる軍勢を待った。

 

新田から、藤生紀伊守の加勢には、小金井四郎左衛門・金谷因幡守・木村伊豆守・国定

玄蕃・岡田石見・芝山久助・広瀬長蔵・岸根彦五郎・畑六之助 ・松下十蔵・斎藤織部・

同甚九郎・浜田内匠・南佐渡守を先陣として、上下百七十五人がやって来て、境野原に

陣を取つて、紀伊守に都合が良いように控えた。

 

 

 

内通って、戦国時代には、常套手段だったのでしょうか?

藤生紀伊守は、早速実行に移し、桐生に内通者を作ります。

 

そして、天正元年3月12日、大将として桐生に押し寄せます。

 

桐生家の状態からして滅亡するだろうから、他から侵略される前に取ってしまおう。

そんな理屈で、由良家の桐生進出が伝えられています。

 

でも、『桐生老談記』では、両家の争いの発端が、水争いだったと詳細に述べられてい

ます。

桐生家が、渡良瀬川の水を新田側に分けないようにしたことが、原因だったとありま

す。

 

桐生家の内実は、あまりにもお粗末ですね。

由良家の桐生進出は、待ち望まれていたということになりそうです。

 

境野原(桐生市境野町)は、桐生市の南部で、新田(太田)に近いです。

 

桐生氏館があったというのは、北部の柄杓山の麓(桐生市梅田町)です。

渭雲寺(いうんじ)の辺りと言われています。

訪問は、2018年10月25日です。

あの頃は、御朱印はやってないということでした。

今はどうかな?

 

桐生市の中心部から、それなりの距離があります。

桐生の町の中心が形成されるのは、もう少し先です(^-^)/

 

 

(つづく)